2012南関東地区特別養成研修会

3月5日(月)13時から、東京教区赤羽教会信徒会館ホールをお借りして、地区特別養成研修会を開催しました。


国際評議会養成責任者のベネデット・リーノ兄をお迎えしての特別講演会でした。

各地兄弟会員にとっては国際議長団の養成担当者から初めての講演会とあって、平日の大雨の中、遠くは北海道から、東日本の各地から70名近い会員が詰めかけました。


リーノ兄から、イタリア人特有ののダイナミックさで語られると、まるでフランシスコの精神が彼の言葉から生き生きと流れ出し、会場に満ちていくかのようでした。


特に小さな兄弟会のメンバーにとっては、自分たちの兄弟姉妹が世界の隅々の40万人の兄弟たちと繋がっていることが実感され、大きな喜びと希望になりました。


以下、当日の画像を掲載いたします。


(全体写真だけでは雰囲気がよく伝わらないので、臨場感を実感していただきたく、個別の画像も数枚掲載させていただきました。不都合があるようでしたらofs.minamikanto@hotmail.co.jpまでご連絡ください。その画像は直ちに削除させていただきます。)




開会のご挨拶が会長から。

同上
受付風景
ベネデット・リーノ兄の講演風景①
同上②
明るくて使いやすい赤羽教会のホール。
同上②
参加者総数は約70名でした。
リーノ兄と通訳をお願いしたU野さん。
講演後の質問・感想①
通訳中のU野さん。
こういう感じで、会場の一人ひとりに
語りかけるように話してくださいました。
講演後の質問・感想②
質問内容をわかりやすくをリーノ兄に伝えます。
質問へのお答え①
会場からの質問も英語です。
質問へのお答え②



################

国際評議員の養成責任者ベネデット・リーノ兄が、日本全国評議会の選挙会議のために、来日されており、3月5日(月)には赤羽教会信徒会館ホールにて、南関東地区の主催で東日本の在世会員を対象にした特別養成研修会にて「在世会会員のアイデンティティー」についての講話を頂きました。

以下、講話のまとめです。(名古屋全国会議において同テーマでの講演内容と総合し、まとめました)                         
(文責:地区養成責任者)

****

今日、大きな問題の一つとして、在世会員自身、「そもそも私たちは何ものなのか?」というアイデンティティーの問題があります。

私たちは単に教区の信心グループではありません。他のフランシスコ会の修道会同様、「オーダーordine」なのです。この会に入るためには誓約をたてる必要があり、その厳粛的意味においては他の修道会の誓願と同じといえます

。ただし私たちは在世において生きることを選びました。このように私たちが所属している在世会が、素晴らしいものであるという帰属意識を養って頂きたいと思います。

◉「フランシスコの斬新さ」について

さて、私たちのフランシスコについての知識は殆どの場合、神秘的なアプローチ、あるいは感傷的にあるいはロマンティックな側面からの知識ではないでしょうか。

しかしフランシスコは教会の中でいわば革命を起こした、ということをしっかり見ていかなければなりません。教会論的にも修道生活に革命のようなことを起こしたのです。このことは「フランシスコの斬新さ」と呼ばれています。

第二バチカン公会議以前、教会は在世に生きる人たちの役割は余り理解されていませんでした。教会を構成するのピラミッドのトップにあったのは位階で、修道者、信徒、神の民と続きました。しかし、第二バチカン公会議以降、神の民が一番上に、上下の位置が逆転しすることになりました。

第二バチカン以前       第二バチカン以降
位階              神の民
修道者             信徒   
信徒              位階
神の民             修道者 

このように、教会憲章において神の民が一番に来ました。全体的教会論といいます。私たちは皆、洗礼を受け、同じ運命、使命を皆が同じものを受けています。イエスは使徒を任命したのです。

教会からの理解としては、信徒がいなければ位階に意味が無く、位階が無ければ信徒も無いのです。互いが互いのために存在しているということです。これは交わりの教会論と呼ばれますが、これは20世紀に起ったことです。

しかし、フランシスコは同じことを13世紀に既に気づいていたのです。 私たちが存在するのは他人のためであり、 私たちは全ての人たちと兄弟姉妹になるように生まれているということをフランシスコは知っていたのです。

フランシスカンファミリーのことが会則の第一条、第一項に書かれていますが、ファミリーの中に神の民の総てが含まれているのです。フランシスコは当時の教会に対して革命的な価値をもたらしました。これは実に素晴らしいことです。

フランシスコの時代には、修道生活は僧院の中だけて営まれ、彼らは世界に対して動きませんでした。隠遁修道者もカノア(修道参事会)も動きませんでした。彼らに会うにはこちらから出かけていかなければならなりませんでした。

しかしフランシスコはイエスのようにしたかったのです。イエスは人々の間に出かけていきました。使徒的、とは送られるという意味です。だからフランシスコも出かけていったわけです。これが使徒的生活です。 フランシスコのことで一番に理解しなければならないということはこれです。 実に、フランシスコ以降の修道会の殆ど総ては使徒的修道会となりました。

女子修道会も同じです。フランシスコの時代には教会は女子を危険から保護するために使徒的修道会を認可しなかったのですが、しかし、クララは病弱のイメージですが実は強い女性であり、使徒的修道女会の形態を勝ち取ったと言えます。

かくして,クララ会は使徒的活動をする人たちのために祈る、いわば使徒的観想会となりました。クララ会は観想生活の中で活動をすることでした。アロンがモーセの腕を支えたように、祈りのうちに、使徒的活動をする人たちを支えました。

リジューの聖テレジアは使徒的修道者の守護です。クララ以降、このように女性の観想生活においても新しい生き方が始まったわけです。

在世会についてはどうでしょうか。在世会も使徒的な存在でなければなりません。アッシジでフランチェスコはポルチウンコラを基点にして世に出て行きました。

使命を果たしてはポルチウンクラに戻りました。私たちの兄弟会はポルチウンクラです。そこから家庭や職場に出て行くのです。

フランシスコの頃までに回心者の運動は下火になっていたのですが、フランシスコは新しい生き方のモデルを作りました。フランシスカン的回心者の会を作りました。私たち在世会会員は「回心する兄弟姉妹」です。

また、内面的な革命として言えるのは、フランシスコの時代は一般に誓約・誓願とは修道会と自分を繋げるものだと思っていました。

しかしフランシスコは誓願はキリストとの結婚のようなものだと思っていたのです。このように主との新しい関係、深い内面的な関係を、フランシスコは作ったのです。

更にイノケンチウス3世教皇は一般信徒に説教を許可したことは注目に値します。フランシスコの仲間たちは何人かを除いて、皆ただの信徒でしたから、実に革命的なことでした。

フランシスコは遺言で「主が私に兄弟を与えて下さった」と言っています。主がフランシスコに二つの賜物を与えました。福音と兄弟です。在世会は「福音を兄弟と生きる」のであり、なぜ私たちが会を「兄弟会」と呼ぶ理由がそこにあるのです。

また、フランシスコ会がローマ教皇に直接依拠していることも、革命的なことです。

例えばベネディクト会はそれぞれ僧院に僧院長がいますが、総長はいません。それぞれの院長が、隣りの僧院に意見をすることは出来ません。また教区の司教に従っているので、その領域の中だけで存在する形です。

しかし、フランシスコにとって修道院は世界です。管区長はそのトップで、彼らは土地割のヒエラルキーを構成する司教に従っているのではなく、直接ローマ教皇に依拠しています。それはフランシスコ以前の修道会と大きな違いです。

使徒的な活動も、私たちの内的な活動も教皇に依拠しているのです。これもまた大きな革命と言えるでしょう。

このように、神の前で一日は千年のようだ、というけれど、千年間かかって変わってきたことを、フランシスコが800年前に先取りしていたということは驚くべきことです。

◉フランシスカンのトリオロジー(三つの会) 

フランシスカンの会は最初は三つでした。神は完全な方ですが、人がこれらを壊してしまいました。

第1会はフランシスコの死後に三つに別れるました。会則は同じでしたが会憲が違いました。
第2会も同様、三つくらいに分かれます。

第3会(現在の在世会の原形)は15世紀にTOR(現在の律修第三会)が分離していきました。

1471年フランシスカンの教皇(シクスト4世)が第1会からの要望を聞いて、在世会を第1会の支配下に置いたのです。

そのとき在世会も四つの各修道会の元に四つに別れました。その時に本来の性格を失い、その後500年間在世会本来の性格が変えられてしまっていたのです。

そして、再びそれを取り戻したのは第二ヴァチカン公会議においてです。私たちは第1会と同じような中心をもつ構造と独自性を取り戻しました。

これがフランシスカンの三つの会(トリロジー)の歴史ですが、本来三つの会は皆
同じ時に同じ人、つまりフランシスコによって、同じ使命を果たすために作られまし
使徒的フランシスカン修道女会もTORの会則を持っています。1921年まで在世会もTORも同じ会則を持っていました。

三つの会は

①「フランシスコが三つの修道会を作った」のであり、
②「同じの体の一部分として存在している」(ウルバヌス4世の言葉)
③「腰紐は三つのロープから出来ている」から強く、
それぞれが自立した一致であって、活気ある相互の一致があるのです。

多くの教皇たちは権威を持って在世会について語ってきたことがあります。

7人の教皇が続けて在世フランシスカンでした。ピオ9世、レオ13世、ピオⅩ世、ベネディクト15世、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネ23世らは在世会会員でした。

1921年 ベネディクト15世が回勅を書きましたが、これは在世会についてのみ書かれたものでした。そこで「あなたがたは真の意味でのorder(修道)会です」と言っています。

orderということにおいては第一会と同じです。

誓願をたてていないにしても、修道会と同様であって、従って会員はそれぞれの生活において宗教的な生き方をしなければならないのです。

在世にある人たちが宗教的に生活を完成させることが出来ると考えたのは当時フランシスコ一人でした。
1956年にも教皇ピオ12世もそのことを言いました。

そして1988年、福者ヨハネ・パウロも繰り返し言いました。ずっと継続して教皇によって語られていることなのです。

このように私たちは世界に広がる修道会だと言えるのです。想像してみてください。最も小さいアフリカの国にも、最も貧しい南米にも兄弟姉妹がいます。私たちは世界の全ての街角に兄弟姉妹を持っています。

112カ国に兄弟姉妹を持っているような大きな組織に私たちは属していのです。なんと素晴らしいことでしょう。

◉フランシスコの使命

聖ダミアーノの十字架はフランシスコに内的理解を与えました。「行って、見ての通り壊れかけた私の家を修復しなさい」。

彼がその話を聞いたとき、同時に全てのフランシスカン家族がフランシスコのように十字架の前に立たされています。私たち会員は全員フランシスコの模範に従ってこの使命を生きなければなりません。

家とは何か?

それはキリストの体です。家のドアが壊れたら、それは元々のキリストの体の材料をとって修復するのです。

フランシスコは45年くらいの人生でした。しかしそれで使命が終わったのではなく、主は三つの家族を与えました。

彼の使命を継続するために。彼は謙遜な人でしたから最初は修道会を作る意図はありませんでした。彼はただ自分自身が回心したいと思っていただけです。

彼は聖霊に素直に動かされていただけなのです。そして三つの修道会が花開きました。

会におけるフランシスコの存在が意味するのは、私たちの会は彼の使命を引き継いで果たすためで、それができないなら私たちは消えるべきです。

聖霊はその時々の教会の必要なことを理解していて、そのために一つの修道会が必要があればそれが生まれ、なすべきことが終わったら消えて行ったのです。しかしフランシスカンの使命はずっと続きます。

フランシスコは第二のキリストでした。彼の使命はキリストの体である教会を修復すこと。それは永遠の使命です。私たちはそれに値するものでなければなりません。そうでなければ神は他の人を呼ばれるでしょう。

フランシスカンはフランシスコの後継者だからフランシスコの使命を続けなければならりません。私たちはフランシスコと同じ使命を,フランシスコと同じカリスマをもってやっていかなければなりません。

カリスマとはなにか?それはギフト、賜物です。例えば、穴堀りの使命を与えられたらシャベルを与えて下さる。ある使命を与えられたら、それを成し遂げるための賜物も頂くのです。

誓約とは結婚のようなもので、私たち在世会員は誓約したとき命を主に差し上げました。 

私たちは誓約をしたとき、フランシスコのカリスマを頂いたのです。私たちがフランシスコと同じカリスマを持っているのが信じられなければ、心を開いてください。

信じられない人はカリスマを心の中に鍵をかけて持っているようなものです。カリスマを銀行に預けていても役に立たちません。

銀行からおろして、毎日少しずつ取り出して使った方が良い。教会が私たちの会則を認めたのは、私たち一人ひとりがフランシスコのカリスマを持っていて、それを教会の使命の中で使うためです。

持ってなければ与えられませんが持っているものは与えられます。どうぞ皆さんのカリスマを使って下さい。

フランシスコは第1会、第2会、第3会に共通のたった一つの会則を与えました。私たちが従うべきは、それぞれの生きている場の状況に合わせて、より完全に福音に忠実に生きることです。

それ以上それ以下でもありません。私たちは厳密な意味では修道者ではないけれど、私たちは誓約をたてています。

それは宗教的な誓約をたてている訳で、これは本当に大切なことなのです。クララ会も同様、在世会もまた在世においてフランシスコと同じ使命を果たしていかなければなりません。

◉誓約の式文の意味を考える~私たちは何を誓約したのか?~
(「フランシスコとともに」P.90 誓約の決意表明の部分を参照のこと。引用の部分は英語はイタリア語の原文の語順によります)

「私○○は、主が私にこのようなお恵みを与えてくださいましたので」

多くの人たちは私が在世会員になると決めたと思っているかもしれません。それは
違います、ということです。主が恵みを下さったから在世会会員になったのです。
主が先にあなたを愛したのであって、主がイニシャチブをとったのです。
このことを皆さんは誓約の時に言ったはずです。認識していなかったかもしれませんが、このように誓ったのです。

「洗礼の時の誓いを新たにし」

なぜでしょう? 私たちは皆、洗礼によって奉献(聖化)されたのです。私たちは皆、キリストの体の一部となることで聖化されました。自分の心の中で思い出すべきは、私たちの洗礼の時の約束です。では洗礼の時の約束って何ですか?このことを私が話すとき、多くの兄弟が答えられないのです。自分の約束したことを思え出せないと彼らは言うのですが、毎週ちゃんと唱えています。クレド(信条)です。

「洗礼の時の誓いを新たにし」といっても、何を誓ったかを忘れたら、新たにも出来ません。ですから最初に、皆さんの洗礼の時に戻って、主の前で皆さん自身の洗礼のことをもう一度思い出し、祝ってもらいましょう。

「自分自身を奉献(聖化)します(奉献する=consacrate=聖化する)」「神の国に奉仕するために」
consacrateとは、自分を聖別して神に捧げることです。

神様のためだけに捧げるので、その他のものには使えないという意味です。祭壇を聖別したら宗教的儀式にしか使えません。

教会もカリスも、もう俗的用途には使えません。このように、私たちも自分自身を聖化(奉献する=consacrate)し、神様だけのものとしたのです。

これはとても重要なことです。ハンガリーの聖エリザベトも聖金曜日の祭壇の上に手をおいて自分自身を聖別しました。フランシスコに従いながら在世会会員としてです。彼女は自分を犠牲として捧げました。

なぜ祭壇の上に手を置いたのでしょう。何故なら、キリストの犠牲に倣い自分も犠牲に捧げたという意味です。

私たちもキリストの体の一部として同じように聖化(consacrate)されているのです。そのことが皆さんの誓約の式文に入っています。日本語では奉献では生け贄というニュアンスが消えていますが、consacrateとは犠牲として捧げるという意味が入ります。

『フランシスコとともに』では「奉献」と訳されていますが、例えばキリストの奉献はpresentationプレゼンテーション(自分を提示すること)という語の訳で、そのconsacrateの意味とは違います。

私たちは司祭が聖化されたのと同じように、私たちも聖化されているという素晴らしいことであるのですが、それは神の国の奉仕のためなのです。 

私たちが本当に聖なるものになるには、唯一の聖なるものである神が私たちを自分の元に連れて行かれる時に可能になります。

それはすなわち、神とともに自分を聖なるものとすることなのです。パンを聖別するとき、聖霊の働きによるののです。

consacrate とは神と自分が一体のものであるという宣言でもあるのです。このように、自分が誓約によって結ばれたものは壮大なものです。そして聖化の目的は「神の国に奉仕するため」です。

そして、その次に言います。

それゆえ「私は約束します」「イエスキリストの福音を生きることを」「在世の身分において」と。

第一会の人たちは「貧しさと従順と貞潔の中で福音を生きる」のですが、在世会の場合は在世の身分において福音を生きるのです。

福音を生きるのは一生、毎日毎日、一生であって、今日はやるが明日はやらないというわけにいきません。

また、イエス福音の全てを生きるのであって、福音書の一章から五章までとかを生きます、というわけには生きません。

福音書全体を生きるということです。この約束はとてつもない約束であるのです。

ですから、約束をしたことを理解してよく考えましょう。私はこんなこと全部約束をした覚えは無いという人がいるでしょう。

でも誰もあなたを強制させた訳ではなく自分の意志で約束したのです。

兄弟会に誓約に向けて学んでいる人がいたら、このことをよく理解させてあげて下さい。まず、この生き方の素晴らしさ、この召命の素晴らしさ、私たちの会の素晴らしさを理解してもらって下さい。

そして同時に大きな責任があるということも理解してもらって下さい。

もし彼らが誓約するとき、目も耳も頭も心も広げてください。既に誓約した兄弟姉妹たちは、このようにとてつもないことを約束してしまい、どういう風にやっていけば良いのかと途方にくれるかもしれませんが、そこで、その次です。

「 聖霊の恵みによって」
「聖母マリア」、祈って下さい
「師父フランシスコ」、祈って下さい
「兄弟との交わりによって」こうしてみんなに
「つねに助けられ」ます。

何故なら到達すべき目的は
「キリストの愛を全うする」ことです。

これが私たちが誓約したことです。

召命について

もし間違った召命の道を選んだらどうなるか、という問いに、ベネデット兄はきっぱりとこう答えました。間違った召命は必ず頓挫します。なぜならそれは自分の足に合わない靴をはいて遠い目的地に向かうようなものだからです。

思いと努力で歩き出しても途中で足が痛くなって歩けなくなるからです。その人はフランシスカンではなく、他の召命があり、他の靴を履くよう招かれていたのかもしれません。ですからフランシスコが好きだからとか、フランシスカンの司祭が好きだから、在世会の人たちといると心地よいから、というのは召命ではありません。

召命とはうちから溢れ出すもの、そうせざるを得ないというものです。 皆の祈りによって、 気づかなかった召命に気づくことはあるかもしれません。 

誓約してから徐々に召命があるようになるということとも残念ながらなにのです。召命はあるならある、無ければ無い、というものです。ですから召命は丁寧に、慎重に見極める必要があるということをよく理解して欲しいのです。

あとがき (地区養成責任者)

ベネデット兄の来日に際し、通訳をしながら直接ベネデットさんに伺っていて思ったことをいくつか最後にみなさんと分かち合わせて頂きたいと思います。

まず、言うべきことはきっぱり言い切るというベネデット兄の態度に、日本語の曖昧な表現に慣れていてる私たちは幾度かハッとさせられることがありました。確かに、私たちは大切なことを言う方も聞く方もぼやかしている場合があります。

時に耳に痛いことや厳しく聞こえることも、よく考えてみれば確かに言い切るべき事柄だったりします。例えば召命に関してです。

フランシスカンの召命ではないことを遠慮して示さないなら、逆に別の道で神様のご計画を持った方の召命を損なうことになる、というような考え方です。

確かに目の前の人とのやりとりが厳しくなることを避けたいと思うのに対し、ベネデット兄の態度はもっとフランシスカンとしての鳥瞰的観点からでした。

そして、イタリア語の言語の特徴を反映した思考方法によるものなのか、良い意味で感性的ではなく理性的でした。~感じる、でなく、~考える、でした。

会則、会憲を今一度、言葉の意味をしっかりと捉えながら常に読み親しむ必要を感じました。問題があるとき、質問がある時、ベネデットさんが立ち戻るのは感情論ではく、まず会則、会憲、儀式書、教会法、カトリックの教え、聖書、フランシスコの言葉などであり、感情の行き違いも含めて、多くの問題は共通の基盤に理性的に立ち戻ることによって意外に簡単に解決します。

それでも微妙なニュアンスが残る場合、彼は必ず「愛に照らして」考え行うようにと、また難しいことを言わねばならないときでも、笑顔で愛の心で伝える、と言われていました。

実際、彼から厳しいことを指摘されながらも、同時にとても安心でしたし、人柄の温かさを感じました。特に彼が在世会について語るときは本当に内側から聖霊に燃えているように、何か熱いものが溢れてこちらにも伝わってきました。以上のことは、直接お話しできる機会を頂いたことで特に皆さんにお伝えしておきたいことです。